2006年10月25日

「映画トリスタンとイゾルデ」〜相違が生む悲劇

「映画トリスタンとイゾルデ」〜相違が生む悲劇

 ケヴィン・レイノルズ監督作品「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞した。
 トリスタンに関しては、わたしに語らせると長くなるのはご承知おきの通りだが、とにかく映画を見ての感想を述べてみようと思う。
 つまり、原作からの物語の観点からの比較が主になる。
 辛口気味でネタバレ描写含むので、この映画が好きでたまらない方、もしくはご覧になっていない方は注意が必要。




 美術、衣装、撮影はとても力が入っており、丁寧で美しい。
 しかし、トリスタンの故郷をリオネスからタンタロンに変更したり(これは仕方がないのかな?)、ドアー城の場所が間違っていたり、
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 食事の場面でまた当時は使われていないはずのフォークが登場したり
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と、詰めの甘さもある。中世時代の食事はスプーンとナイフと指を使って食べていたはずである。


 脚色を担当したのはディーン・ジョーギャリス。話をうまくまとめているようで、原作からはかけ離れた一体どこに素が残っているんだってくらいの、とんでもないシナリオを書いている。ハリウッド解釈なのね。
 モロルトが婚約者、傷を負ったトリスタンを治療したときに断固たる愛が生まれると確信できる、マルケ王が高潔な人物であるとの設定は、ワーグナーから。
 あとはトリスタン、イゾルデ、マルケ王の三角関係の話という基本的枠組みを留めているだけ。相当自由に物語を改変している。
 史実と現実感を追求しようとして、ファンタジー的ケルト的要素を排除したのだろうけど。これならば「トリスタンとイゾルデ」とタイトルをつけなくてもいいんじゃない? 原案扱いで違う物語を紡いでくれたほうがこちらの精神衛生上よかった。

 まずは基本的な媚薬の省略。
 
 フィルトル(媚薬)は、トリスタン伝説の紋章のごときものである。
 フィルトルは服用者の人格をその根底から変えてしまう、一つの象徴として用いられているのである。
 しかしその愛はフィルトルがそのために醸された人達のためではなく、誤って飲んでひきおこされた愛である所に既にその悲劇がある。
   (『トリスタン伝説』 佐藤輝夫 中央公論社 (317、395、415頁)

 媚薬を省略するのはサトクリフ (邦訳沖積舎「トリスタンとイズー」)も同じだけれども、サトクリフが媚薬以外はほぼ忠実で、不満はどうにか解消されるのに比べ、この映画の製作陣たちがトリスタンの枠組みをどうしてここまで破壊するのかが理解しがたい。多少はこの「トリスタン伝説の紋章のごときもの」に敬意を払ってもらいたかった。



 トリスタンの両親は、少年時代まで存命している。
 一般的には両親は誕生と同時に死亡(父親は生きているとする本もある)、産褥の床で母親が「トリスタン(悲しみの子)」と名付けることになっている。
 つまり映画ではこの挿話なく、トリスタンはその名前を何故か自然に付けられたことになる。
 英雄譚の必須条件(誕生、怪物退治、宝物または女性の獲得)、「誕生」の消滅。
 ちなみに竜退治の挿話も、女性の獲得たるもう一人の「白い手のイゾルデ」も存在しないので、英雄譚としては成立しない。剛勇を誇り忠誠に悩み愛に殉じる一介の騎士の物語である。
 トリスタンとマルケ王の関係を赤の他人、擬似親子に設定したことで、隠れ主題オイディプス・コンプレックスは完全崩壊。むしろ映画では実の甥になっているメロートとマルケ王との間に生まれる相克がこれに近い。


 トリスタンの両親死亡と同時期に、イゾルデの母親が亡くなったことが示される。
 これによって媚薬を作る王妃の存在も消え、ケルト的な女性主導の島アイルランドは、何故か冷酷非道な父親(実の娘に対する愛情がこれっぽっちもないぺらっぺらの薄っぺらい王)が支配する男性の島に変更。
 海を挟んで男性的な大陸、女性的な島の対立のはずが、両方とも野郎どもが喧々諤々しあっている、大差のない設定になった。


 イゾルデの処女性は映画の中ではまったくといって重要要素ではない。
 映画のノヴェライズ本(竹書房)では、イゾルデが処女を失ったあとの描写がこれ。

 きっと母が生きていたら、こうしていただろう。そして母なら何も言わなくても娘の変化に気づいただろう。この幸福を一緒になって感じてくれただろう、と。(108頁)

 いや、きっと母親は「この幸福を一緒になって感じて」はくれないんじゃないかと思う。そもそも一国の王女が婚礼前の身で、そんな簡単に敵国の兵士に体を預けても良いものなのか?
 ちなみに原作では、媚薬を飲み、船上で失われてしまった、イゾルデの処女性をどうしたのかと言うと、ブランゲーネが失敗を償うため、自らの貞操を決死の覚悟で捧げて身代わりになったのである。
 映画ではイゾルデは"I'll pretend it's you"で、そのままマルケ王とベッドインしてしまい、マルケ王も新婦が経験済みであることはまったく気にしていないようである。これはファンタジー。


 イゾルデは、石造りの母親の墓を心の拠り所にしているようで、落ち込んだときにはいつも訪れている。
 ならば、わたしなら、意に染まぬ政略結婚をするために、コーンウォールに渡る前、アイルランドを永久に離れる身になるとき、この母の墓所前で悩むイゾルデの描写を入れたいところだ。
 イゾルデは、王女ではなく、ただの「未来からやってきた」普通の娘である。
 思考が桁外れに現代的といっても良いだろう。以下の台詞が証明。
 "Joy in being a lady? Wanting something I can’t have. A life of my own."
 "If we lived in a place without duty... would you be with me?"
 "Love is made by God. Ignore it and you can suffer as you cannot imagine."

 未来からやってきているので、当時としては存在するはずもないジョン・ダンの未来の詩を読むのもお茶の子さいさい。
 "My face in thine eyes, thine in mine appears,
 And true plain hearts do in the faces rest;
 Whatever dies, was not mixed equally;
 If our two loves be one, or thou and I.
 Love so alike, that none can slacken, none can die."
 史実を追求しているようでいて、何故かここもファンタジーが出現!

 原作では音楽の名手トリスタンが、イゾルデに竪琴や他の楽器を奏でつつ謡ったであろう詩の数々。
 映画ではまったく逆でイゾルデからトリスタンへの朗読行為になっている。
 侍女の名を騙るのもイゾルデ。原作ならトリスタンが「タントリス」(バレバレの)偽名を名乗る。
 また、逢びきの誘いをかけるのも、子供の話をするのも、マルケ王に真実を語るのもイゾルデ。
 映画とこの恋愛は未来人イゾルデが先導している。そして「神から賜った愛」に生きるイゾルデはいつもトリスタンを一番に選ぶ。
 イゾルデは王妃たる自分の立場や、国に対する責任感はまったく持ち合わせていない平凡な女性である。貴婦人としての振る舞いを天然ボケ的に自覚していない。
 それは「手をつないで歩けない」と泣いたり、大切な同盟の日に「会えないと死ぬ」などと平気な顔で誘いをかけることからも明らかだ。


 対して中世観に囚われたままのトリスタンは、常に騎士の義務たる国王への奉仕を選択する。
 "Your marriage will end a hundred years of bloodshed."
 "There are other things to live for. Duty. Honour."
 "For all time, they will say it was our love that brought down a kingdom. Remember us. "


 トリスタンとイゾルデのこの「愛情」観の相違が一番の悲劇だろう。
 "You were right. Life is greater than death, but love was more than either."
 この「愛」の受け止め方は、二人で違うことは明らかだ。

 「史実」と「ファンタジー」における解釈の相違。また原作と映画がまったく乖離している「相違」点。これもまた鑑賞する立場においては悲劇に違いない。



 おまけでわたしのツッコミ集
・ピロートーク最悪。「どんな感じ?」「私の前に何人?」
 どちらも正直に答える人はいないと思われ。
 「グッジョブ!」「え〜と7人、いや8人だったっけ?」なんて答えないって(笑)。

・トリスタンはアイルランドから帰還し、ドア城に乗り込むときに馬に乗っているのだが、無一文の身でどうやってその馬を調達したのか?

・最後に戦闘に加わる場面で、洞窟に入る前に剣を持っているのだが、設定上その直前まで丸腰だったとしか思えず。どこからその剣は沸いて出た?

・トリスタンはターミネーターばりの生命力。主人公は実に都合よいときまで生き延び、決め台詞をきちんと言う。

・モロルトの剣の毒の正体はフグだったことが判明!
 かすり傷で全身が麻痺するとは、アイルランドのフグは超猛毒なのか、それともイングランド兵が毒に弱いだけ?
 そりゃ肝や該当部分を口に入れればヤバイだろうけどさあ…。
 ああ、てっさ、てっちり食べたいなあ…。などと考えたのはわたしだけか?

・メロートは結局あのまま舟の用意をしてもらえない…哀れ。

・つか、アイルランド王の顛末も中途半端。

・ジョン・ダンの未来の詩を読むイゾルデ。
 あの時代には読み書きできる人のほうが貴重。できるのはほとんど学者や僧侶に限られるでしょ。
 貴族、王族でさえ教養豊かな人ならともかく、怪しいものだぜ。
 携帯用の小型本など女官には手も出せないほど高価。本のほとんどは大型本で一頁ずつ丁寧に手書きされたラテン語。「薔薇の名前」みたいな教会の図書館に所蔵されているのではないか?
 なのに『英語』の詩なんぞ読んでいる! 冷静に考えればありえないと思えるのだが。
 よって、何故イゾルデが嘘をついていると見抜けないのだ、トリスタン!
 (映画ではあまりにも堂々とやっているので、わたしが間違っているのかな。)
posted by ぴっぽ at 09:13| Comment(2) | TrackBack(2) | 映画
この記事へのコメント
トラバありがとうございました。

>「トリスタンとイゾルデ」とタイトルをつけなくてもいいんじゃない? 原案扱いで違う物語を紡いでくれたほうがこちらの精神衛生上よかった。

全くそのとおりだと思います。
私の周りには結構「この映画で泣いちゃった」という方が多いし 映画レビューサイトを見ても評判悪くないので 私がおかしいのかと不安でしたが やはり元の話を知っているかそうでないかで評価が分かれるのでしょうね。
でも もし名が「イゾルデ」でなくてもやっぱりこの時代と立場を考えると「未来人」がマーク王への罪悪感など全くないようなので彼女に共感は出来かねます。さらに「お前が誘っておいて 一人生き残るんかい!!」とラストは怒りすら覚えました。(笑)
Posted by herbaltea at 2006年11月02日 18:32
herbaltea さん、はじめまして。
トラバ返し&コメントありがとうございます。

>映画レビューサイトを見ても評判悪くない
そうなんですよね…。
ロミジュリの原作扱いなんて、シェイクスピアにも失礼ではないですか。
こんなネットの片隅でも、本当の「トリスタンとイゾルデ」は一応こうなんだ、ということを、主張しておきたいと思います。

>ラストは怒りすら
これじゃタイタニックアゲインですものね(笑)。
竹書房から出ている映画のノヴェライズ本では一応原作に沿った(と思われる)、ラストが加えられてます。
Posted by ぴっぽ at 2006年11月03日 12:21
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「トリスタンとイゾルデ」見た直後の感想
Excerpt: ミクシィにあげた、見たその日の感想を転載します。 けっこう辛口(^^;) ---
Weblog: トリとイズ!
Tracked: 2006-11-01 18:25

『トリスタンとイゾルデ』とマーク
Excerpt: アーサー王の円卓の騎士のトリスタンとランスロットはかたやイゾルデとつらい恋をしておりかたやアーサーの妃グィネヴィアと禁断の恋におちていると知り、夢見る少女(って歳でもなかったか)だったころの私はすっか..
Weblog: ∞INFINITY∞
Tracked: 2006-11-02 18:33